※ 募集は終了致しました ※

出演者決定、当企画は改めて「整数1」として始動致します。引き続きご注目くださいませ。

また以下の概要・募集要項は記録として残します。


宇宙も開闢はや138億年

そろそろ「一人芝居」に終止符を

傑作をも超越した空前絶後「究極の一人芝居」や如何に

出演者募集!(当方演出)

世界初演後は作品の全権利を出演者一人に集約、終生レパートリーとして自由に上演可

last update 2021.5.5 「整数1」として始動 since 2021.1.8

概要

「究極の一人芝居」を、新作としてイチから作ります。

その出演者を募集しています。

現時点でそれ以外は何も決まっていません。究極に相応しい題材や舞台や演出とは何か。出演者とともに考えます。

演劇という人類の営みは今尚も未知なる可能性を秘め、今後も揺り動き続けることと思いますが、その最小単位である(と取り急ぎ仮定はし得るであろうと考えても差し当たり差し支えないと思われる)一人芝居については、そろそろ空前絶後、究極の一作を目指すことができる頃合ではないか? と考えました。

一人芝居は既に数多ありますが、その多くは番外公演的な扱い、ショート、オムニバス、又はフェスやツアーといった趣向との抱き合わせ、が殆どでです。(無論、渡辺美佐子出演・井上ひさし作「化粧」や、大竹しのぶ出演・野田秀樹作「売り言葉」を始めとした、純粋な一人芝居の傑作も枚挙に暇ありません)。本企画では、一人芝居とは何か、それ自体に向き合い、考え、作ります。

究極究極と言っていると、なんだか途方もなく誇大妄想気味で馬鹿っぽいですが、これはむしろ実用的で明確な一つの指針として機能すると考えています。題材は勿論、小道具一つの取り扱い方にしても「今回は」ではなく「究極であるならば」ではっきりと変わるはずです(そもそも究極の一人芝居で小道具を使うのか? そこから考えなばなりませんね)

また近年、コロナ禍、そしてハラスメントなど、人の集まりを基本とする演劇の在り方が根底から揺らいでいる状況があります。その最中、必然的に主体となる一人の俳優が演劇の在り方を模索することは、決して一人芝居だけの意義に終わることはないでしょう。

作品完成世界初演後は、改変等を含めた全権利を俳優一人に集約します。一人芝居なので、俳優は今後の人生において、思い立ったが吉日に上演が可能です。生活していくことは勿論、活動の継続性自体、俳優の大きな課題ですが、一人芝居という形態はここにも一つの回答を示せるのではないでしょうか。

無論、究極の一人芝居は永年の再演に耐え、またそれにより洗練されていく作品です。

当方

申し遅れまして、斯くして一人芝居の出演者を募集している私は、山本握微と申します。はじめまして。お見知りおきを。自らの劇団を主宰し、劇作と演出を担当してきました。

冒頭の通り、作・演出の立場として一人芝居に出演する俳優を募集しているつもりですが、果たしてそれも適切かはわかりません。まず脚本は書かないかもしれないし(既存の戯曲やテキストを使うかもしれないし)、演出と呼べる立場になるのかはわかりません。「究極の一人芝居」において出演者以外のスタッフの役割は未だ不明です。ともあれ本企画においては取り急ぎはただの発案者ということになるかと存じます。

尚、直近の劇団公演(2020年3月)で、一時間の一人芝居を作・演出した経験があります。これも、劇団なりに究極の一人芝居を目指したものです。そのほか、具体的な実績等は追々。

本企画は既存の劇団とは無関係に新たに立ち上げたものです。

募集要項

便宜上うっかり「募集要項」と掲げてみたものの「究極の一人芝居」という概念を提出した以上は、私もそれに携わるに相応しいか試される、一人のプレイヤーに過ぎません(もしこの文章を読んで「なるほど究極の一人芝居を作ろう」と思い立った誰かが遠い何処かでも達成すれば、それはそれでめでたい)。ということで選考ではなく必然、両者の合意によって決定となります。

応募条件

ともあれ。取っ掛かりとして、私個人が提示する条件は下記通りです。

普段なら未経験者歓迎ですが、今回は究極を目指す故、経験者のみ絞っても罰は当りますまい。もし興味はあるけど現時点で舞台経験のない俳優志望の方がいらっしゃいましたら、待ちますので、何処かでがんばってきてください。

また俳優からも、企画者に求める条件を予め掲げておいた方が良いでしょう。お手、柔らかに。

応募方法

ともあれ演劇ですので、まずは直接の面談・協議をします。

下記窓口までご都合のよい日時をご連絡いただくか、後述する説明会にご来場くださいませ。

なお応募時から最初の面接までは、一切の個人情報は伏せていただいて結構です。仮名と応答可能なメールアドレスだけご用意くださいませ。

面談・説明会は大阪市阿倍野区某所を予定しています。ほそ長い部屋があり、大幅なソーシャルディスタンスを保っての会話が可能です。

説明会

不定期的に説明会を開催予定です。こちらはご出演を検討される方に限らず、ご興味ありましたらどなたでもご参加いただけます。ご予約不要、開催日時にお越しいただくのみで、個人情報等も問いません。

また、こちらからはご出演に関する勧誘等を一切行いませんので、ご出演をご検討をいただける方は現地でお声掛けをいただくか、改めて窓口よりご連絡くださいませ。説明会終了後に個別ご面談も可能です。

なお、当企画において説明すべきことは概ね当ページに記載しておりますので、それ以上は特にありません(なので、ご出演ご検討の方も参加は必須ではありません)。質疑応答を中心に行います。

ご来場の皆様と一緒に具体的に「究極の一人芝居」の各種案も実際に検討してみたいと思います。

次回説明会:2月26日(金)19時より

会場・もものこぶんこ

大阪市阿倍野区阪南町1-30-52 / Google MAP
地下鉄御堂筋線「昭和町」駅2番出口より徒歩約5分
2番出口を出て北へ。小学校の北角を左折し、直進。信号を渡って少し行くと、左手にオレンジのテントが見えます。
地下鉄谷町線「文の里」駅6番出口より徒歩約5分
6番出口を出て西へ。信号のある交差点を左折し、直進。再び信号のある交差点を右折して少し行くと、左手にオレンジのテントが見えます。

もものこぶんこへの地図

ご連絡窓口

メール
akubi@kiwamari.org
Twitter
@elevator_p
でんわ
090-6753-7137

そのほか

要点は以上、それ以外は出演者と協議して考えるため、以下は蛇足に過ぎませんが、飽くまでご参考程度の個人的な意見や想定等を予め幾つか述べます。応募にあたっては読む必要はございません。随時更新。

期間

究極の一人芝居を作るからには相当な時間がかかりそうですが、あんまり長くやり過ぎても錯綜するばかりな気がするので(「無」こそが究極なのだ! という結論になりそうなので)、だいたい2年くらいかなと考えています。最初の1年で勉強や練習、ワークショップを重ねて作品を模索・構想し、もう1年かけていよいよ実作する、というような。2年も、普通の作品づくりに比べれば、長いですね。

(また、俳優自身のスケジュールにもよるかと思います。一人芝居のメリットは、出演者自身でスケジュールを組めること。普段の演劇活動と並行して行うならより長くなるかもしれませんし、逆もまた)

まあ、それは出演者が決まってからの話で、それまでそれこそ何年かかることやら! 私の命運が尽きるのが早いか、究極の一人芝居が完成するのが早いか。如何に!

人数

一人芝居なので出演者一人を募集しています。が……一人でずっと稽古するのは、さすがに大変かもしれません(実際、大変そうでした)。一人だけで根を詰めていくと「無こそが究極なのだ!」となりかねません。また「究極の一人芝居」とは唯一人によってしか演じることしかできない、という特権的なものでもないと思うので、応募者がいれば何人でもいっか。いいのか?

「そのほか」ではない重要な事項という気もしますが、その点も含めて協議したいと思います。まあ、そんなに応募があれば、の話ですけれど。

但し、恐らく究極の一人芝居とは「あてがき」ではない、はずなので出演者によって演出や趣向を変える、ということは考えていません。

実現可能性

「そもそも、お前如きに究極の作品をつくれるのか」という疑問はごもっとも。究極どころか「最低限、お客さんが寝ずに最後まで観る」ことすらも難しいのが一人芝居。いわんやをやをや。

この点については、いや確かに無謀かも、という気もしますが、次の2点において可能性を見出しております。

一つ目は「(逆に)究極の一人芝居は特別に優れた人間しか上演できないものなのか」と考えると、必ずしもそうではないのではないか、ということ。万国びっくりショーじゃないんだから。恐らくそれは、必ずしも特権的なものではなく、或る種の普遍性を併せもってこそ。条件に「技量は問いません」とあるはそのためです。

二つ目は「そもそも、究極の一人芝居というコンセプトで、あんまり、誰もやったことないのでは」という点。前述通り、究極とは途方もない妄想ではなく、実用的で明解な指針です。精度を極めることが本質ではなく、アイデア。そう考えれば、手掛かりはむしろぽんぽん沢山あるような気がします。

もう一つ、作戦として。冒頭で「イチから作ります」と、ゼロでなく敢えてイチからとしたのは、既存の演劇の蓄積をふんだんに利用するということ。ゼロからだとやはり「無こそが究極なのだ!」となりかねません。勿論(よく前衛や実験作に用いられる宣伝文句のように)「演劇そのものを疑う」ことも大変意義あることですが、ここむしろ演劇を信頼して、前提として、参照できるものはどんどん使っていく、という大作戦です。

如何でしょう。できそうな気がしてきませんか?

そうですか。

これが当企画の勘所だと思います。

特にそれ以上の説明は不要と思いますが、この全権利というのは、本当に全権利です。上演権は勿論、改変、そしてクレジットの表記や変更も自由です。つまり初演以降は(そもそも企画し、もしかしたら脚本と演出をするかもしれない)当方の名前や経緯も出す必要も一切ありません(更に別の誰かに演出や改変を依頼するのもありです)。

無論、ありがたくも記載していただくのも自由ですが、むしろしない方がお勧めです。完成後、私が何か凶悪犯罪で捕まったり、滑稽な死に方をしたりしても作品には及ばない、という次第。勿論、そういうつもりはないけれど、何せ人生一寸先は闇。折しも近年そうして葬り去られる作品の検挙に暇なし。

と、そうした便宜上の利便もありますが、やはり究極の一人芝居、最終的にはただ一人に還元したいという理念が第一です。

ただ一つ例外として「独占権」はあるか、というのは別途協議したい思います。

向きあい

こんな俳優に向いているかも

一人芝居に出演したい方、は勿論のこと(とは言え、それが第一の人はあまりいない気がする)本企画は次のような方にお勧めです。

最近の演劇事情をあまり存じないのですが、かつて小劇場ブームからの「作・演出・主宰がリードするタイプ」から、俳優が中心となるタイプも増えた気がします。とは言え、集団制作という性質上、俳優は既に立ち上がっている企画に対し、オーディションに応募したり誘われたりして出演する、というパターンが多いのではないでしょうか(そうでもない?)

それは別にデメリットではなく、舞台の制作や演技というのはそういうものだし、必要に応じて技術を都度発揮するという職人っぽくて良いのですが、もう少し、根底から俳優自身が作り上げる、ということもあって良いかと思います。あてがき、とは違った意味で、俳優の身体それ自体の有り様が、作品そのものを決定していく可能性。……いやこれも既に陳腐な話で、そうした試みも多く為されているとは思いますけれど。

これ、もまた企画ありきには違いありませんが、なるべくそれ以外は現時点でまっさらとして、俳優と協議したいと思います。企画というより切っ掛け、であればいいのですけれど。

(もっと言えば「俳優一人が思いつき、一人芝居を一人で作りきる」こそが究極ではないか、という企画への疑問があるかと思いますが、その場合はどうぞお一人で作っていただければ最高です! それこそ、これら作文が切っ掛けになったのであれば十分役割を果たしたといえるでしょう。当企画自体は、演劇の制作には出演者以外のスタッフ、例えば演出等が必要、という前近代的発想に基づいており、その点は認めねばなりません)

追記 忘れてました、それと普通に、

究極の一人芝居を演じることができるなら、まあ、もうあとは大体何んでもいけるのではないでしょうか(?)。

一人芝居って、やはりその性質上、「もう既に」上手い方へと出演の声がかかるパターンが多いのではないかと思います。それはまあ、そうなんだけど、この企画は時間をかける(かかる)ことで、作品とともに上手くなっていこう、という側面も含みます。究極故に、初演以降の人生を通じた上演も見据えていることもあり。勿論、誰にだってできまーすとは言えないかもしれませんが。現段階での演技の巧拙も勿論大事なのだけれど、長い時間で見れば。

こんな俳優には向いていないかも

でもまあ(こうして考えてみたものの)向き不向きなど超越しようではありませんか。「怪盗アマリリス」というむかしの漫画で、アイドルが著名な音楽家に教えを請いに行ったところ、間違って忍者に弟子入りしてしまい、歌唱法でなく忍術を身につけてしまうという話がありました。そういう錯誤も、よいではありませんか。

スタッフについて

スタッフを今後募集や依頼したりする可能性はあります。ただ前述通り、一人芝居において予め明確に予想される役割は現在「出演者一人」のみなので、まずは出演者が決定してからその方向性を考えたいと思います。

ともあれ、広い意味で、色々な方にご協力いただければと考えております。出演という形ではないけれどご興味あります方は、是非引き続き当ページをご注目くださいませ。

拠点について

2021年時点で大阪市内に二箇所あります。

北区某所(堺筋線・谷町線南森町駅・東西線大阪天満宮駅徒歩約5分)
雑居ビルの一室。狭いがミーティングや読み稽古に使える。
阿倍野区某所(御堂筋線昭和町駅・谷町線文の里駅徒歩約5分)
図書室。ある程度の広さがあり、稽古のほか、実際にここで観客を十数人入れて一人芝居を上演したこともあり。

いづれも地下鉄駅より徒歩数分と交通は至便。公民館や貸室と違ってある程度の自由も効きます。

広い場所で動きたい時や大きな声を出したい時などは、上記以外に公民館を借りたりもするかと思います。

勿論、上記は現時点で当方が想定するものに過ぎません。余談ですが、私は地下鉄とバスの全線定期を持っていますので、大阪市内であれば大体何処でも無料で行くことができます(これにより全体の交通費も節約できるかもしれません)。

時間について

当方の都合ですが、平日の日中は大阪市内僻地で仕事、定時は夕方で残業はほぼ無し、土日祝が休みと所謂ふつうの会社員をしています。そのため、諸々の活動は平日の夜と土日祝にしています。

では、これに合わない方とは一緒に活動できないのか。確かに難しいかもしれませんが、その辺もまずは協議しましょう。最初の面談については、有給を駆使するなどして、どのような日時にも対応致します。木曜日の深夜3時とかでも。

(これも一人芝居の大きなメリットですが、スケジューリング自体を出演者自身にしてもらうのがいいかもしれません。日程だけでなく、その日の時間配分とかも。これまで及び一人芝居の時ですらも、演出が俳優の調子を見極めて休憩時間などを決定していましたが、よくよく考えてみれば見極めるまでもなく、俳優自身に決めてもらったら良かったのでは? 勿論、本番に向けての進捗管理は演出と大きく関わることですが)

おかねについて

当然ながら、これも協議します。

但し、概要からご理解いただけるかと存じますが、本企画は当方が出演者を雇用するわけではありませんので、出演料はおろか当面の経費は必然、各々持ち出しとなるは必定かと思います。しかも初演までの道のりが長いので、入場料収入も遥か先となります。

では、持ち合わせが無い方とは一緒に活動できないのか。確かに難しいかもしれませんが、その辺もまずは協議しましょう。最初の面談については、所持金に余裕がなく電車に乗れない等の場合、当方より出向きます。

(補足:私自身はこれまで一貫して無料公演を行ってきました。つまり最初から最後まで全額関係者負担。しかしこれは飽くまでこの劇団独自のポリシーですので、本企画とは異なります。ご存知の方もいらっしゃると思うので念の為。入場料ほか、色々シノギも考えてみましょう)

究極と傑作

今回に限らず元より大言壮語が大好きで、これまで当方の劇団公演でも常に「傑作」を掲げ、目指してきました(それは何処だってそうであるはずなんですが、継続的な活動をする劇団や作家は、傑作というより「最近考えていること、思いついたこと」を都度作品にしているようにも思えます。当劇団は公演できる機会自体が少なく、常に最終公演であったため、必然最高傑作のみを目指してきた、という事情もあります。貧乏性の一種ともいえますが)

となると最新作とは常に「これまでの作品と知見を統合し且つ更新した、新作でもあり一種の再演」でもありました。私にとって傑作を目指すということは、これまでの活動で培った作風の延長線上にある/しかない、ということになります。それが最善でありつつ、限界でもありました。

この方針ですと、そもそも作品をつくる機会が滅多に生じません(前述とは逆説的に、傑作を目指すので、継続的な活動ができなかった、とも言えます)。実際、継続的に演劇活動すること自体は目的ではないため、それでも良く、今後もそのような活動はしていくつもりです。

一方、今回掲げている「究極」はこうした傑作の方向性とは似て非なるもので、作風やこれまでの経歴など、目指すところは個人の活動を超越したところに存在するのであろうと思います。宇宙的究極と個人的傑作の違い。

……が……ことはそう単純でもなく、誰かが具体的に作品をつくる以上は、その作風から逃れられないし、それを取っ掛かりにしていくしかない気もします(そのためにも募集要項にある通り、飽くまで舞台経験者同士で作っていきたいわけなのですが)。しかし、それでは……。

この点、どうでもいい話のようで結構悩ましく考えております。が……それもまた随時……。

……としての、一人芝居

「演劇」に於いては周縁的な位置付けとなる一人芝居ですが、広義の「芸」においては、例えば落語は伝統と大衆性を併せ持つ独立した一大ジャンルとして既にある通り、一人で表現をすること自体はさほど珍しいわけでもなく、むしろごく普通だと言えます(なので参考資料には困りません)

究極の一人芝居とは、その秘めたる可能性を最大限に引き出し、普通の演劇からも独立した一つのジャンルとして、その雛形であろうとすることかもしれません。

と思う一方、冒頭に掲げた通り、飽くまで「演劇の最小単位としての一人芝居」でありたい気持ちもあります。その成果をふつうの演劇へも還元できるような。……まあ抽象的な話ではありますが、この辺は追々、根幹に関わってくるような気もします。

(例えば、究極の一人の芝居、であることだけを追求していけば、かなり抽象化されていって、演劇とは接点が無くなってしまうような心配もあります。「無こそが究極なのだ!」みたいな)

ハラスメント対策について

今回、広く出演者を募集していることもあり、ハラスメント対策について明確にしておきたいと思います。

ただ私自身は人生経験が薄っぺらいこともあり、この方面には特に知識がありませんが、幸か不幸か今現在斯界では議論が大変盛んであり、参照資料はふんだんにあるようです。取り急ぎ、美術手帖の最新号に「芸術分野におけるハラスメント防止ガイドライン」(監修 EGSA JAPAN)が掲載されていましたので、制作の開始にあたってはこれを共有、明示する時間を設け、取り急ぎ本企画における対策としたいと思います。

さて、そのこと自体は消火器の設置如く粛々とですが、ハラスメントというものが総じて「閉鎖的な組織や社会慣習によって生じる権力関係」に拠ると考えた時、その延長線上に「そもそも、この企画をどういう意思決定のもとで進めて行くのか」という根幹に関わる問いが浮上してきます。

かつて、ハラスメントは主に「職場」の問題として捉えられていましたように思います(現在でもハラスメントとだけ検索すれば、まず企業向けの事例や資料が多く引き当たります)。言わずもがな企業は、営利と業務の遂行のため縦割りで社員を組織しますが、そこに閉鎖系の権力構造が発生します。

一方、芸術制作の現場は、そうした俗世間からは超越し……ているようで、そうではありません。ただこれは「芸術制作の現場もまた、俗な職場の一種に過ぎない」というだけではありません。そもそも芸術とは特別な価値を創造することでもあり、価値に付随する権力もダイレクトに生成します。まして集団制作にあってはパワハラにご注意どころか、パワープラントそのもの。企業は業務のために飽くまで過程として権力関係を築くところ、芸術はそれ自体を目的にすらしていると言えるでしょう(無論、芸術が創造しようとするのは飽くまで権力ではなく(広義の)価値ですが)

昨今「芸術の現場"でも"ハラスメントが発生しているのではなく、芸術の現場"だからこそ"ハラスメントが問題となっている」とようやく認識されてきたのではないかと思います。

ただ、これに対し各種の啓蒙が為されていますが「そもそもの権力構造を解体しよう」という話はあまり聞こえてきません。アメリカの銃社会については「使う人だけの問題ではなく、所持できること自体が問題」と捉える方は多いと思いますが、芸術に関しては権力関係を保持したまま、悪用には気を付けよう、と未だ個人の問題に留まらせているように思います。

まあ実際それは構造でなく、個人の問題かもしれません。運営には権力構造も必要かもしれません(私も一応、劇団の主宰者ですので、色々思うところはあります)。ただ、一人芝居という形式であれば必然、演出と出演者で対等な関係を築けるのではないか、結果的にハラスメントの抑止にもなるのではないか、ということが企画自体の狙いの一つでもあります。

ただし、ことはそう簡単ではなく、頭数が一対一だからといって対等になるとも限りません(他にスタッフも増えるかもしれないし。それに「我々は対等だ」つってる時点で対等じゃねえだろ、とも言えます)

そこでもう一つの対策として現在考えているのは、企画の開始にあたっては「上演の約束や契約をしない」ということです。演劇の場合は特に、公演の責任それ自体が人質や弱みにも成り得ます。お互い何時でもやめられることにしましょう。いや、やめられたら困るけど……や、困るからちゃんとしましょう、ということですね。楽しくできるのが一番です。

身の上

大切なのはこれから! 過去は関係なし! とは思えども、一体どういう人間がこうした企画を考えているのか、全くわからないのもあれなので、この項目にて当方の身の上を説明致します。

取り急ぎネット上でお読みいただける台本
「街街」(2009年)
「エンサイクロペヂア 大怪訂再販」(GoogleDocs)(2020年)
百三十七億年の恋愛史 (掌編ラジオドラマ用シナリオ)

(以下、書きかけ)